今回は時事ネタ。兵庫県明石市の泉房穂市長の暴言についてです。
あの暴言をパワハラだと叩く方もいれば、市長の発言の経緯(死亡事故)と7年間行政が全く動かなかった経緯、その他市長の功績(子育て支援や、犯罪被害者支援の条例の成立)を理由に擁護する意見もあります。
また2017年に発生した暴言の録音が統一地方選挙を控えたこの状況で行われたこのタイミングに疑問を投げかける方もいるでしょう。
そして、泉市長は辞職されました。
(参考)明石市長の暴言騒動でTVが伝えぬ発言を掲載 神戸新聞記者の思い - ライブドアニュース
明石市長の辞職を承認 市議会、職員への暴言で - 産経ニュース
この暴言問題についてどう考えたらいいのでしょうか。
わたしの考え
まず最初にわたしの考え、結論を述べておきたいと思います。
市長のパワハラ発言は許されるものではなく、仕事のことであれば説得と納得というプロセスを大事にし、それが無理なら人事権を発動して異動させるべきというものです。
簡単にいうと誰であっても暴力はいけませんというシンプルなものです。
と、言っても心情的には市長を擁護したい気持ちもあります。市長の仕事の評価や怒ってしまった原因は市民を大切にしているからこそですよね。
もし市長が保身に走り、市民をどうでも良いと思っていたら怒ったりしないと思うんですよ。明石市が同様かはわかりませんが、同じ兵庫県だと以下のようなことがあるわけです。
神戸市のヤミ専従、長年放置の原因は…『歴代、選挙で推薦受けた市長が続いたこと』(関西テレビ) - Yahoo!ニュース
神戸市だと選挙で組合の推薦を受けた市長が続くということが70年も行われています。一般論で言っても、気骨のある政治家以外は、選挙で公務員の組織票を考えて役所に嫌われる可能性のある発言や行動をしないんですよね。
しかし、結果的に実績を残した市長は辞職してしまいました。合理性だけを追求して考えると、こんなに勿体ないことはないと思ってしまうわけです。
一方で、この市長を擁護すること、擁護する側への恐れがあります。
「実績を残した人間であれば多少の悪は許される」という考えに近いと感じてしまうからです。
「実績を残した人なんだから、多少は許してあげよう」
「悪いところもあるけれど、アイツは仕事はできるからな」
そういう考えは、いつしか『「俺は」実績を残したから、「俺は」仕事ができるから、この程度のことはして良いんだ』という考えに繋がりそうで恐いのです。
そして、往々にして本人が思うこの程度のことは、被害者や第三者から見ると全く違うものに見えたりするものです。
多くの悲劇は「この程度のことは自分なら許される」と思って始まっているように考えてしまいます。
もちろん世の中にある「この程度のルール違反」というモノの中には、法整備が遅れている為に生じている類のものもあるでしょう。でも少なくとも暴力、暴言は自衛の場合を除いて使うべきではないと思うんですよね。
そういうわけで、わたしは、合理性というものに思いを馳せつつも、誰であっても暴力はいけませんというシンプルな結論に戻ってくるのです。
辞任をして元明石市長となった泉房穂さんには、いずれ政界に戻ってその実力を多くの人達のために奮ってほしいなと願います。
さて、これはあくまでわたしの考え。わたしがこう考えるに至ったプロセス、というか考えた材料について書いておきたいと思います。興味のない方は、どうぞブラウザを閉じてくださいな。
要素を分解する
問題や疑問を整理する時に有効な方法の一つに「要素を分解する」という手法があります。そして、分解した要素を「似た事例と比較」して「共通点」を見出す中で考えを深めていくことができます。
話をわかりやすくするために市長を「加害者」、告発者を「被害者」と呼ぶことにしましょう。明石市市長問題発言を事実を分解していくと以下の4つになります。
・加害者のパワハラ発言(火をつけてこい等)があった。
・パワハラ発言の原因は、被害者が7年間仕事(交渉)をしなかったから。
・加害者はパワハラ発言以外の実績は評価されている。
・加害者は辞職した。
似た事例を探す
こういった経緯の中、パワハラ発言を擁護すべきかどうかを考える為に似た事例を探してみましょう。
わたしがすぐに思い浮かんだのは都立町田総合高校の体罰問題です。
都立町田総合高校で教員が体罰 ネットで動画拡散 - 産経ニュース
こちらも同様に要素を抜き出してみると…
・加害者の体罰(暴力)があった。
・体罰の原因は、被害者の校則違反と挑発。
・加害者は辞職した。
こちらも同様に加害者となった教員へ「罠に嵌められた」という同情の意見が多数ありました。
共通点を探す
どちらも共通するのは、
・加害者がやったことは許されない行為である。
・被害者側にも原因や誘発するものがあったのではないか。
そして、擁護する側の意見としては「やったことは悪いことだが、その為にその人が辞めなければいけない程のことなのか」というものだと思います。
皆さんはこの2つの事件の共通性を眺めてどう思いましたか?
やっぱり、ちょっと擁護したくなった方もいると思います。じゃあ、この事例を挙げてみるとどうでしょうか。
もう一つの事例を探す
わたしが次に思い浮かんだのは、人権派のフォトジャーナリストの広河隆一氏が「週刊文春にて複数の女性から性行為などの強要を告発された」件についてです。
(参考)広河隆一氏に「2週間毎晩襲われた」新たな女性が性被害を告発 | 文春オンライン
“人権派ジャーナリスト”広河隆一氏、女性への壮絶な性行為強要&パワハラに世間震撼 | ビジネスジャーナル
事実であれば、控えめに言っても鬼畜です。もちろん基本的にこの事例は上の2つとは大きく違います。似ているとも言いにくい事例です。
・加害者は、意図的であり複数の被害者がいる。
・被害者に落ち度はなく、むしろ仕事が貰えなくなるかもしれないなど弱みを握られていた。
・加害者は様々な賞を受賞したジャーナリストであり、編集長という立場だった。
・加害者は、報道後、当時の職を解任されている。
繰り替えしになりますが報道が事実であれば、加害者に悪意があり、被害者に落ち度や挑発するような部分はなかったと考えられます。
明石市長の暴言と唯一の共通点は、加害者が有能(少なくともその界隈ではそう思われている)という点です。
広河隆一氏の件については、周りの女性たちも知っていたのに黙るように仕向けていたそうです。
するとその女性からは「このことは伏せておきましょう」「公にしないで」「何事もなかったかのようにするのが一番」という趣旨のことを言われたという。
(引用)広河氏の「性暴力」が10年も放置された理由——セクハラを見えなくする力 | BUSINESS INSIDER JAPAN
有能だから、仕事ができるから、そういう理由で守られていたために10年間も放置され、セクハラ・パワハラ・性被害が野放しにされていた可能性があるわけです。
広河氏の件が、セクハラ・パワハラから性被害へと段階を経ていたのか、いきなりセクハラも性被害もしまくりだったのかはわかりません。
もし最初は小さなセクハラから始まっていて、徐々にエスカレートしていたのであれば本人や取り巻きが「この程度は許される」と思っていたことが原因のように感じるのです。
「この程度」かどうかを決めるのは本人や取り巻きではありません。
そして、広河氏の件に限れば「取り巻きの女性が庇わなければ、それ以降、新たな被害者はでなかったのではないか」と考えてしまうのです。
多少の悪は許されるのか
「広河氏の件を持ち出すのは理論が飛躍している。あくまで政治家としての活動だけを見て決めるべきだ」
そういう意見もあると思います。
パワハラ、体罰(暴力)、セクハラ、性被害といった違う種類の事件を同列に語るのもオカシイという指摘もあると思います。
広河氏の例は、あくまで周りからみて「有能」と思われている人間の「悪」が見過ごされてきた極端な例です
わたし自身の個別の案件の心情だけを言えば、明石市長、教員は擁護したくなってしまいますし、フォトジャーナリストの件は糾弾したくなります。
おそらくそういう方は多いのではないかと思います。
一方で、明石市長は暴言、教員は暴力。それだけを聞けば、擁護する方はいないはず。この違いは、なんでしょうか?
それは「事情・経緯」を知っているかどうかですよね。この「事情・経緯」という言葉は、「ストーリー」とも言い換えることができるでしょう。
明石市長の暴言のストーリーを知っているから、庇いたくなる。
教員への挑発のストーリーを知っているから、庇いたくなる。
ストーリーによる判断は、「情状酌量」「正当防衛」という場合もあり、決して悪い事ばかりではありません。
でも、ストーリーで判断しすぎては、論理的ではなく、極めて感情的・心情的な判断になってしまうでしょう。そして、それが行き過ぎてしまうと、ジャーナリストの件のようなことに繋がるおそれがある。
明石市長の暴言を許す人は、ジャーナリストがもし性被害ではなく同じような暴言であれば許すのでしょうか? そういう風に考えてしまうのです。
「有能な人の多少の悪は許されるのか」どうか。
ストーリーで判断するのを全否定はしませんが、ストーリーを中心に判断してしまうと、大きく見誤ってしまう可能性があると思います。
肝に命じて日々の物事に向き合っていきたいと思います。では、また。