どうも、りょうさかさんです。
親ガチャという言葉が話題のようです。
今回は「親ガチャ」について考えたことです。
親ガチャを克服できるのは努力だけ?
親ガチャとは『「子どもは自分で親を選ぶことができず、どういう境遇に生まれるかは運任せ」であることを抽選形式でカプセルトイなどを購入するガチャにたとえた言葉』だそうです。
(*太字部分はこちらより引用 「親ガチャ」に眉をひそめる親たちに欠けた視点 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース)
「親ガチャ」自体が"ある意味"で存在することは、このブログでも何度か記事にしてきました。
例えば、こちらの記事がそうです。
もちろん親ガチャには学力以外にも、ネグレクト、虐待などの様々な要素があって語られていると思います。
こういった話題についてインターネット上を見回すとネグレクト、虐待などを除けば「努力が足りないんじゃないか」という意見が賛同を得ているように感じます。
努力できるのも遺伝子
一方で、努力できるのも遺伝子によるという論文も発表されています。
ミシガン州立大学とテキサス大学の研究グループが、双子850組を対象に「楽器の演奏技術(=努力)」について研究したものがあります。
その研究では、環境が違っても一卵性双生児の双子では演奏技術に差がなかった=努力に差がなかったそうです。
つまり「努力できるかどうかすら環境よりも遺伝子による」というものです。
もちろん論文になったことが「全て事実」ではありませんから、こういう研究もあるんだなー程度で押さえておくのが無難だと思います。
ただ「努力できること」も「親ガチャ」かもしれないのに、「親ガチャ」の不満を言っている人間に「君の努力が足りないからだ」と指摘するのは、なかなか残酷だと思いませんか?
それがどういう意味であれ
とはいえ、「親ガチャ」の愚痴を言っていても現実がかわるわけではありません。
本人が出来ることはなんでしょうか?
そこでわたしが思い出したのはスヌーピーです。
親ガチャに関して、スヌーピーの「配られたカードで勝負するしかない」という言葉が引用されるのをあなたも見たことがあるかもしれません。
でも、このスヌーピーの「配られたカードで勝負するしかない」って台詞には続きがあるんです。
”You play with the cards you’re dealt …whatever that means. ”
(配られたカードで勝負するしかないのさ…それがどういう意味であれ。)
わたしはこの”…whatever that means.”(…それがどういう意味であれ。)という言葉がとてもスヌーピーらしいと思います。
前の句の「配られたカードで勝負するしかないのさ」だけだったら「カードが良かろうが悪かろうが勝利を目指そう」という「意志」を強く感じちゃんうと思うんです。
でも、この「…それがどういう意味であれ」という下の句があることで「勝負の結果」は横に置いておこうというニュアンスが加わるんですよね。
次に思い出したのが麻雀漫画「天」(福本伸行/竹書房)のアカギの台詞です。
「ただ… やる事…その熱… 行為そのものが…生きるって言うこと…!」
「いいじゃないか…!三流で…!熱い三流なら 上等よ…!」
「勝ち負け」の結果ではなく、行為そのもの(プロセス)に価値があるという主張はとっても似ていると思うんです。
スヌーピーと麻雀漫画という対極と言って良いほど離れたものが結果的に似たような人生観に辿りつくんだから面白いですよね。
自分らしく生きる
きっと学生さんは「親ガチャ」が気になるんでしょうが、生きていけば「環境ガチャ」「会社ガチャ」「配属先ガチャ」「上司ガチャ」「同僚ガチャ」に遭遇します。
そして、誰かにとってのSSRが自分にはクソキャラだったり、自分自身はSSRのつもりでも他人にとってはクソキャラになることだって良くあることです。
例えば、こちらが「上司ガチャ、外れたわー」と嘆いている時、上司は「部下ガチャ、外れたわー」と嘆いていることだってあるかもしれません。
結局、「親ガチャなんて言葉は、愚痴のネタで使うくらいにしておいて自分らしく生きる」というこの手の質問によくある回答に落ち着くような気がします。
自分らしく生きた結果が、それがどういう意味であれ、自分の人生なんですよね。
そして、もし「自分がわからない」という人は、まず「自分探し」からしてみれば良いんじゃないでしょうか。
まずは「スヌーピー」と「天」を読んでみてくださいw
それでは、また。