りょうさかさんと

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【考察】「かいじゅうたちのいるところ」は両親を描かずに描いた名作!


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どうも、りょうさかさんです。

今回は、わたしの好きな絵本「かいじゅうたちのいるところ」(モーリス・センダック作・じんぐうてるお訳・冨山房)について考察します。

いわゆる国語的に正解な読み方かわかりませんが「まあ、こんな読み方もあるよね」というスタンスでご覧ください。

ネタバレ全開ですが、その点はご容赦を。

わたしは、おかあさん、おとうさんを直接描かずに親子関係を描いているから大好きなんです。

「かいじゅうたちのいるところ」 のストーリー

「かいじゅうたちのいるところ」について語るまえに前提として「かいじゅうたちのいるところ」のストーリーについてご紹介しますね。

ご存知の方は、サッと読み飛ばしてください。

マックスはおおかみのぬいぐるみをきて、いたずらをはじめました。

おかあさんに「この かいじゅう!」と怒られてマックスは「おまえを たべちゃうぞ!」と言い返します。

マックスは、夕ご飯ぬきで寝室に放り込まれ、眠ってしまいます。

マックスは、夢の中で船に乗り、かいじゅうたちのいる島に辿りつきます。

マックスは、かいじゅうたちを魔法であやつり、「かいじゅうおどり」を始めます。

「もうたくさんだ。やめえ」とマックスはさけび、かいじゅうを眠らすと寂しくなって「やさしい だれかさんのところ」へ帰りたくなります。

かいじゅうたちは「おねがい、いかないで」と引き留めますがマックスはさっさと船に乗って帰ります。

夢から覚めたマックスは、寝室においてある夕ご飯を確かめます。

マックスとかいじゅうは、子どもと大人の関係

「かいじゅうたちのいるところ」は、子どもが大人になろうとする姿を描いています。

それは、マックスの夢の中の「かいじゅう」たちが「大人」を表現していることから読み取れます。

「かいじゅう」たちが「大人」であることが一番わかりやすいのは、マックスが船で島から帰るシーンの「かいじゅうの台詞」です。

「おねがい、いかないで。おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。たべてやるから いかないで。」

この言葉って大人が子どもに言う台詞そのものですよね。

「目の中に入れても痛くない」的な意味合いなわけです。

そして、「目の中に入れても痛くない」という発言を最もするのは、親ですよね。

実は「かいじゅう」たちの中におかあさん、おとうさんらしき「かいじゅう」が描かれているんです。

あなたは気付きましたか? 

かいじゅうの中にいるマックスのおかあさん

わたしの考えを言ってしまうと…

おかあさんだと思われる「かいじゅう」は、鼻と頭に3本の角を持ち、長い髪をしているのが特徴です。

この「おかあさんかいじゅう」は、マックスが島につくと真っ先に出迎えます(背中には小さいかいじゅうを乗せています)。

マックスに「しずかにしろ」と言われた時は、両手で顔を覆い唖然とします。

マックスが「おうさまになった」時は、一番後ろに移動して木を抱きながらマックスを眺めています。

とっても「おかあさん」的な仕草ですよね。

この「おかあさんかいじゅう」は、夢のシーンの前から登場しています。

冒頭のマックスのいたずらのシーンの背景の中に描かれています。

「by MAX」とサインの書かれた「落書きのかいじゅう」と「おかあさんかいじゅう」は、同じ姿なんです。

この「落書きのかいじゅう」からわかることがあります。

それは、おかあさんがこの「落書きのかいじゅう 」を大事なものだと捉えていることです。

どうしてそんなことがわかるのかというとこの「落書きのかいじゅう」がマックスの手が届かない位置に貼られているからです。(画鋲の位置が、跳びあがっているマックスの手の位置より上に描かれています)

つまり、この「落書きのかいじゅう」を貼ったのは、おかあさんなんです。

おとうさんが貼った可能性ももちろんありますが、絵本内でおかあさんの台詞しかないことから、おかあさんだと考えるのが自然だとわたしは思います。

何気ない背景からこういう読み取り方が出来るんです。

かいじゅうの中にいるマックスのおとうさん

では、おかあさんの次に、おとうさんの「かいじゅう」についてです。

「おとうさんかいじゅう」は、実は表紙の「かいじゅう」なんです。

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なぜこの「かいじゅう」が、マックスのおとうさんだと言えるのか?

表紙の「かいじゅう」は、マックスと「かいじゅうおどり」をする際に肩車をするからです。

肩車って物語における「おとうさん」と「子ども」の関係性を象徴する遊びの一つなんですよね。

肩車以外に親子関係を表現する手法として、映画などでよく使われるのが「キャッチボール」です。

ちなみに「範馬刃牙」でも主人公の刃牙が父親勇次郎に肩車される場面で父と子のつながりを描いています。(「範馬刃牙」36巻 第301話「肩車」(板垣恵介・秋田書店))

そして、マックスが「かいじゅう」を眠らせる時に傍にいるのは「おかあさんかいじゅう」と「表紙のかいじゅう」の2体なんですよ!

(この見開きには、3体かいじゅうがいますが、マックスから近い位置にいる2体が「おかあさん・表紙のかいじゅう」です) 

真実はわかりませんが、以上のことからわたしは3本角が「おかあさんかいじゅう」、表紙が「おとうさんかいじゅう」なんじゃないかなーと思っています。

「おとうさんかいじゅう」が示すもの

さて、この表紙の「かいじゅう(おとうさんかいじゅう)」だけが持つ、ある特徴があるんですが、あなたは気付きましたか?

もう一度表紙の写真を出しますね。

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実は、「おとうさんかいじゅう」だけが人間の足をしているんです。

先ほど「かいじゅう」は「大人」だと説明しました。

言い換えれば、マックスの夢の中では、大人になるとは「かいじゅう」になるということです。

足が人間のままということは、完全に大人になりきれていないということです。

つまり大人になりきれていない「おとうさんかいじゅう」は、「いつまでも子どもみたいな父親」を表現しているんです。

少しだけ大人になるマックス

ここで「かいじゅうたちのいるところ」の要素を一度整理してみましょう。

  • マックスは子どもであり、「かいじゅう」は大人。
  • 「かいじゅう」の中には、おかあさん、おとうさんもいる。
  • おとうさんは「大人」になりきっていない一面がある。
  • 大人になるとは「かいじゅう」になることだ。

この前提を共有した上で、ストーリーをもう一度、振り返りましょう。

マックスは「おおかみのぬいぐるみ」を着て「イタズラ」をします。

どうして、マックスは「おおかみのぬいぐるみ」を着るのでしょうか?

別に普段着のままイタズラしても良いはずなんですね。

この「おおかみのぬいぐるみ」を「かいじゅう」になろうとする道具だと読み取ると意味が変わってきます。

マックスは「大人」になりたいんです。

でも中身は子どものままだから、イタズラをしてしまう。

そして、おかあさんにしかられてしまいます。 

おかあさんは おこった。「この かいじゅう」

マックスも まけずに、「おまえを たべちゃうぞ!」

 こんなやりとりをしたあと寝室に放り込まれて、夢を見ます。

「大人」の象徴である「かいじゅう」にマックスがどうするのかというと「かいじゅうならしのまほう」を使って「おうさま」になります。

作中ではこのように書かれています。

かいじゅうたちは おそれいって、こんなかいじゅう みたことない と いって、マックスを かいじゅうたちの おうさまに した。

どうしてかいじゅうたちがマックスを「おうさま」にしたのかというと、それは大人に命令できるポジションが「おうさま」だからなんですね。

本当は、魔法を使えるから「おうさま」になる必要はないし、マックス自身もおうさまになるつもりはないんです。

でも、かいじゅうたちに"よって"「おうさま」になるわけです。

ある意味子ども扱いされているんですが、マックスは気付きません。

「おうさま」になったマックスは「大人にされたこと」の真似をしはじめます

「かいじゅうおどり」という自分のしたいことを一緒にさせたり、おかあさんにされた「ゆうごはんぬき」をやり返すんですね。

ここで忘れてはならないのは、大人が子どもに行う「ゆうごはんぬき」は「罰」だということです。

しかし、「かいじゅう」はマックスの魔法に従って「かいじゅうおどり」を一緒にしただけ。

かいじゅうは、罰せられるようなことを全くしていなんです。

だからマックスは、やり返したはずなのにスッキリしない。

すると、どうだろう、マックスは おうさまなのに さびしくなって、やさしい だれかさんの ところへ かえりたくなった。

そして、それどころか寂しくなってしまうんですね。

ここでわたしは、大人(親)の真似をしているうちにマックスは、おかあさんの気持ちがなんとなくわかったんじゃないかと感じました。

「もしかしたら、おかあさんも同じように寂しいのかも」

そう思ったからマックスは「帰りたくなった」んです。

帰ろうとすると「かいじゅう」たちは、引き留めます。 

「おねがい、いかないで。おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。たべてやるから いかないで。」

ここで思い出したいのが冒頭のマックスとおかあさんのやりとりです。

おかあさんは おこった。「この かいじゅう」

マックスも まけずに、「おまえを たべちゃうぞ!」

このマックスが言い返した「おまえをたべちゃうぞ!」とかいじゅうたちの「たべてやるから」という台詞は、字面はほとんど同じですが意味合いが全然違いますよね。

マックスの「たべちゃうぞ」はただの売り言葉に買い言葉ですが、かいじゅうたちの「たべちゃいたい」は愛情表現です。

それがわかるようになったから、マックスは笑顔で島から去るのです。 

そしてラストシーン、それまでずっーと頭までかぶっていた「おおかみのぬいぐるみ」をマックスは、頭だけ取ります

つまり「頭だけ人間のかいじゅう」になるんですね。

これは「足だけ人間のままのおとうさんかいじゅう」ととても対称的な描かれ方です。

言い換えれば、マックスが少しだけ大人になったこと、おとうさんに近づいたことを表現しているんですよね。

そして、おかあさんが置いてくれた「ゆうごはん(スープ)」の暖かさ(愛情)を感じて物語は終わります。

少し大人になったからこそマックスは、おかあさんの愛情がわかるんです。

こんな風にわたしは、読み解きました。

「かいじゅうたちのいるところ」のまとめ

今回はわたしの大好きな 「かいじゅうたちのいるところ」をご紹介しました。

画像を載せるとよりわかりやすいのですが、著作権の関係上「表紙画像」と「文章の引用」のみとしました。

最後にもう一度書きますが、これはわたしの読み方です。

全然違うよ! という考えもあると思いますし、本当に間違っているかもしれませんw

ただ「こうやって絵や文字から読み解くのも面白いよ!」というのが伝われば嬉しいです。

こんなごちゃごちゃ考えなくても、「かいじゅうたちのいるところ」は面白いし子どもも気に入る絵本なのでご安心をw

興味を持たれた方は、ぜひ読んでみてください。

「かいじゅうたちのいるところ」、名作です!

それでは、また。