りょうさかさんと

教育業界にいる陵坂さんが教育・子育て・DWEなどについて書くブログ

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無自覚の傲慢さにモヤモヤする動物愛護


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どうも、教育関係会社員のりょうさかさんです。

先日、ネットニュースで「動物愛護」に関する以下の記事を読みました。

どうもモヤモヤするんですよねー

誤解がないように最初に書いておくと「この記事が悪い」ということが言いたいのではありません。

知らない情報もわたしには多く、考えさせられる内容でした。

今回はなぜ動物愛護にモヤモヤするのか考えてみました。

モヤモヤする3つの理由

わたしがうーんと考えさせられ、同時にモヤモヤとした気分になったのは当該記事のこちらの部分です。

昨年11月、フランス議会で野生どうぶつの利用を禁止する法案が可決したことがニュースになりました。仏大統領の署名を経て新法として成立すれば、2026年からイルカショーが禁止されることになります。

 他にも2024年からペットショップでの犬や猫の販売の禁止や、2023年にサーカスでのライオンやトラ、熊などの野生どうぶつのショーの禁止、そして2028年にはそれらの施設での野生どうぶつの所有自体が違法となります。

 これは、どうぶつの扱いに対するフランス市民の意識の高まりを反映させた結果です。狩猟や闘牛、そして非常に残酷なフォアグラが対象になっていないなどまだ多くの議論がありますが、どうぶつの尊厳を見直す大きな一歩になることには変わりありません。

(引用)「水族館の人気者」イルカが迎える恐ろしい結末 | 外交・国際政治 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

該当箇所によると法案が成立すればフランスでは、イルカショー、ペットショップ、サーカスショーなどが禁止になるそうです。

さらにここからわたしがモヤモヤした要素を列挙してみましょう

  1. イルカショーを否定されて不愉快
  2. 「他の生き物の尊厳」と言いながら野生動物と家畜で線引きしている点
  3. 結果的に「他の生き物の尊厳」に序列をつけている点
  4. その序列をつけること自体の傲慢さを無視、ないし言及していない点

この4つのモヤモヤをさらに単純化して整理すると以下の2点に落とし込めそうです。

  1. 文化の違い
  2. 人間目線の「動物の尊厳」

では、一つずつ考えていきましょう。

文化の違い

「文化の違い」について、そもそもイルカの前にクジラを食べること(鯨食文化)に対して他国から否定的に言われている「反捕鯨運動」がわたしの心の中では伏線になっています。

鯨食文化自体は日本だけではなく、アイスランド、ノルウェー、アメリカ、ロシアなどにもあるようです。

鯨食文化をわたしは日本の文化の一つだと思っているので、反捕鯨運動的な否定は受け入れ難いと思っています。

一方で、絶滅危惧種だから控えるべきだという主張には納得して賛成する立場です。

つまり文化を相手の「価値観」で否定されるのは嫌だけれど、絶滅危惧種といった「客観的事実」をもとに「我慢してくれ」と言われたら納得できるというスタンスです。

わたしは、文化が絶対正義だとも考えておらず、現実とのバランスだと考えているからです。

人間目線の「動物の尊厳」

もしイルカについても「個体数が減少しているからイルカの飼育、イルカショーを段階的に制限する」という主張であればモヤモヤしなかったんじゃないかと思うんですね。

しかし、今回は「野生動物の利用を禁止する法案」「動物の尊厳」という言葉が出てくるように「個体数の減少」はメインテーマではありません。

「動物の命」をもてあそんでいないか? そんな視点が中心にあるわけです。

しかし、当該記事内でも言及されていますが、家畜、闘牛、フォアグラなどは無視されています。

家畜や闘牛には、動物の尊厳がないのでしょうか?

野生動物と家畜をどのように線引きしているのかは、わたしにはわかりません。

野生動物に「訓練(動物目線になれば虐待)」をしていることがポイントなのか、個体数のコントロールのし易さがポイントなのか、それともその動物へのイメージや文化によるものなのかもしれません。

いずれにせよ「動物の尊厳」と言いながら、野生動物と家畜で命に人間の視点から序列をつけているんです。

いわば動物の命は平等ではなく、その基準は「人間のエゴ」によるものだということです。

もちろん人間の視点から序列をつけること自体を否定するつもりはありません。

わたし自身、「文化」の場面で述べた内容を露悪的に書き直せば「個体数が多いのであれば人間が生き物の命を自由にして良い」という側面もある人間中心の視点だからです。

わたしはこの自分の視点の「傲慢さ」を自覚しているつもりです。

しかし、動物愛護を訴える記事では、どういうわけかこの部分はあまり触れられず、申し訳程度に書かれる程度です。

そして、「動物の尊厳」という言葉を使うことによって「読む人間」も「主張している本人」も、「人間中心の目線」という事実から目を背けて、善行をしているように錯覚させてしまうのではないかと考えてしまうのです。

どちらも人間のエゴにすぎない

もしかすると「書き手側」は「錯覚していたい」のかもしれません。

イルカにまつわる言説では、「知性が高い」「優しそう」「子育てをする」みたいなイメージを理由に「そんなイルカに酷いことをするなんてけしからん!」というバイアスがかかっているように感じるからです。

実際、今回の記事でも以下のような文言がでてきます。

イルカは家族の絆が強く、早く泳げない赤ちゃんや年寄りを守りながら最後まで群れで固まって泳ぎます。

運動能力が高い個体だけ逃げるようなことはありません。また、優しい性格で人間を攻撃することもないため、いとも簡単に群ごと捕まってしまうのです。母親イルカが殺されている横で、赤ちゃんイルカがパニックになって岩壁に打ち付けられて溺れている様子をたびたび目にしてきました。

(引用)「水族館の人気者」イルカが迎える恐ろしい結末 | 外交・国際政治 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

本来、「動物の尊厳」が理由であればイルカの「知性が高い」「優しい」「子育てをする」という理由は必要ありません。

本来、「動物の尊厳」はどんな動物にもあるはず。

知性が低かろうが、獰猛だろうが、子育てをしない動物だって「動物の尊厳」があるはずです。

獰猛なヘビや托卵するカッコウには、動物の尊厳がないのでしょうか?

そんなことないでしょう?

また「知性が高い」「優しい」はイルカの一面にすぎません。

イルカにだってあまり声高に語られない負の側面(暴力面・性の面)がありますよね。(不快になる方もいると思うのでここでは詳しく言及しません)

そこは無視して、まるで自分が見たいものだけを見ているように見えてしまうんです。

イルカを特別扱いするのは「自分の見たい一面だけを取り上げている」=「善行をしていると錯覚していたい」ようにも感じるんです。

上段で書いたように動物の命に序列をつける動物愛護は善行ではなく、「動物を飼う」「イルカショー」と同じく「人間のエゴ」にすぎないんです。

同じエゴなのに「絶対善」として振る舞っているように見えてしまう。

まるで「多様性を認めよう」と言いながら、「他人の価値観を否定する」というダブルスタンダードを見せられているようなんですよね。

わたしは、この無自覚の傲慢さにモヤモヤしてしまうんです。

動物園・水族館で感じる罪悪感

わたし自身、動物園や水族館に行くと罪悪感を感じることがあります。

生き物たちを人間の都合で閉じ込めて、彼らが本来感じるはずだった生きていく中の喜び・苦しみをどれだけ奪っているんだろう、これは人間のエゴだよな、と思うわけです。

ペットだって同様です。

一方で動物園、水族館といった場所がない世界を想像するとゾッとするんです。

動物や魚たちがテレビや図鑑の中だけの存在になってしまうのではないか。

動物園、水族館がなければ様々な動物たちが恐竜や想像上の生き物と似たような存在になってしまうと思うんです。

2010年代に「魚の切り身がそのまま海で泳いでいると思っている小学生がいる」みたいな報道がありました。

その報道自体の真偽は別として、既に大人のわたしたちは動物園、水族館がなくなってもそういう生き物たちがいたことを当然として生きていけます。

しかし、これから生まれてくる子どもたちにその環境を用意すべきなんでしょうか?

やはり見に行こうと思えば、見に行けるという状況は世界を認知していく上で大切だと思うんです。

今回紹介したフランスの法案が世界的に進めば、50年後くらいには動物園も水族館もなくなり、動物や魚などの現存する生き物も博物館ではく製と骨格標本が並ぶ存在になるのかもしれませんね。

「動物愛護」記事を読んで、こんなことをわたしは考えました。

今回のモヤモヤの原因はあくまでわたしの場合、もしあなたもモヤモヤしたのなら、ぜひ考えてみてください。

それでは、また。