りょうさかさんと

教育業界にいる陵坂さんが教育・子育て・DWEなどについて書くブログ

りょうさかさんと

【考察】ベルセルクの「足元」と「太陽」の描写


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どうも、教育関係会社員のりょうさかさんです。

2021年、東京池袋で開催された「ベルセルク展」(三浦建太郎/白泉社)で複製原画を2枚購入しました。

その2枚は漫画連載時から大好きな見開きで、このように並べて部屋に飾っています。

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購入後、毎日眺めて勝手にこの二枚の象徴するものを考えたり、対比してみたりしてしまいました。

今回は「ベルセルク」の2つの見開きを「技術的」にどうこう感想を言うのではなく「表現にこめられらたもの」を考察してたいと思います。

「旅立ちの朝」の足跡と太陽

まずは、こちらの見開き。

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これは「ベルセルク8巻」の『旅立ちの朝(2)』のワンシーンです。

物語は、グリフィス(左)率いる「鷹の団」から主人公ガッツ(右)が離れ、自分の道を歩み始めようとする場面です。

この後、ガッツは自分で人生を選び、完璧だと思われたグリフィスはガッツを失った喪失を埋めるように暴走し転落します。

つまりガッツがグリフィスから袂を分かつ物語の大きな転換点です。

そして、この見開きが2人のストーリーが本当の意味で動き出すのは、まさにこの瞬間だと象徴しているんです。

そう考える理由は、2人の足元に足跡がないんです。

それまでページでは、ちゃんと足跡が書かれているのに、この見開きでは足跡が一切書かれていません。

三浦先生ほど緻密な作画をされる方が、書き忘れるなんてことはないでしょう。

「足跡が消えるほど2人の対峙の時間が長かった」と考えましたが、そもそも雪は止んでいますし、前後のコマの流れを考えると「対峙した一瞬を切り取った」と考える方が自然です。

辞書にもあるように「足跡」には「歩いた後に残る跡」以外に「業績、過去にしたこと」という意味があります。

その「足跡」を三浦先生が敢えて描かなかった。

つまり足跡(過去)を書かないことで「ここからが本当のスタートだ!」と表現しているんですよ。

さらにわたしはこの見開きの足元に着目しました。

雪の上にあるのは、グリフィスとガッツと「木」の影があるだけです。

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この「木の影」も色々な読み取りができるんですよね。

その前に漫画では、キャラクターの立ち位置と時間軸が作画上関係していると言われています。

この話は「NHK漫画夜話」の「あしたのジョー」の回で夏目房之介先生がされていました。

「漫画は右から左に読んでいくので、左が未来になる。あしたのジョーで真っ白になったジョーは左を見ているから、未来を見ている。だから死んでいないと読み取れる」そういう趣旨の発言だったと記憶しています。

そういう意味では見開きの構図として、旅立つガッツが現在位置を示す見開き右側、ガッツの進む先(未来)を受け止める左側にグリフィスがいるのは自然なんですよね。

では、この考え方をベースにして雪の足跡が2人の歴史(過去)を現していると考えたとき、向き合った2人の進む方向を「未来」だと考えてみました。

では、まずグリフィスから見ていきましょう。

この見開きでは、グリフィスが一歩進んだ先には大きな木の影が横たわっています。

「影」という言葉には辞書にあるように「不吉な予兆」という意味があります。

つまり、この後のグリフィスの転落を暗喩しているように読み取れるんですよね。

次にガッツの視点に立てば、数歩先に大きな木の影があります。

これはグリフィス転落の先にある「触」を暗喩しているように読み取れるんです。

「触の暗喩」でいえば、ガッツの剣先が太陽にかかってるのも意味深に見えますよね。

「日触」の暗喩とも取れますし、触から脱出の際に「髑髏の騎士」が剣で日食を打ち破るシーンと重なってみえたり。

他にも「木の影」が2人の運命を分断しているという見方もあると思います。

こんなことをこの見開きから考えました。

「鬨(とき)の風」の足元と太陽

次に2枚目のこちらの見開きです。

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これは「ベルセルク22巻」の『鬨の風(2)』のワンシーンです。

再転生をしたグリフィスが人の姿で、再び自分の夢を歩み始める場面です。

不死者ゾッド、月光の騎士ロクス、ラクシャス、炎竜の騎士グルンベルド、その他の人外たちが膝をついて、グリフィスに忠誠を誓うシーンです。

このワンシーンを1枚目『旅立ちの朝』と同じように見ていくととても対照的なんですよね。

1枚目では足元には足跡一つありませんでしたが、『鬨の風』では夥しい数の死体が足元に広がっています。

複製原画なのでモノローグが掲載されていませんが、漫画内では「喩え様もない 一枚の絵の様でした」と書かれています。

モノローグにあるようにただ絵的に美しい場面にするのなら足元の死体はいらないんですよね。

でも、再転生したグリフィスの初陣に必ずこの屍の山を描く必要があったんです。

というのも転生直前の「グリフィスの原風景」の場面で「グリフィスの夢の道は、多くの味方の屍と彼らが何倍にも増やしてくれた屍でできている」「さらに屍を積み上げなければ、城への道は築けない」と自覚するシーンがあるからです。

再転生したグリフィスがそのことを自覚して、夢へ再度向かっていくことを表現するために足元に夥しい数の死体とその上に立つグリフィスが描かれているんです。

そして、対照的なのはこの見開きの太陽の描かれ方です。

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『旅立ちの朝』では「朝日」、『鬨の風』では「夕陽」が描かれています。

ベルセルクでは、太陽が出ている時間は「生者の時間」、夜になると人外が襲ってくる「死者の時間」です。

では「夕陽」はなんでしょうか?

わたしは、夕陽とは「生者と死者の交わる時間」だと考えました。

この夕陽が「再転生したグリフィスそのもの」を象徴しているようですし、人間と人外の使徒たちが一つの組織となる「鷹の団」を象徴しているようにも見えました。

こんなことをわたしは二枚の見開きから考えました。

最後に

何度見ても三浦先生の圧倒的画力、緻密さ、病的な書き込みに惚れ惚れしてしまいます。

三浦先生は1枚絵の画力だけではなく、ストーリーテリングや心情描写も長けていて、わたしは特にキャラクターの表情や目線の演技も好きなんですよね。

今回は2枚の見開きを「ただ綺麗」「カッコイイ」というのではなく書かれた表現にこめられらたものを考察してみました。

三浦建太郎先生は、2021年5月6日にご逝去されました。

ご冥福をお祈りするとともにこれからもベルセルクを何度も読み返していこうと思います。

それでは、また。