新しい教科書の展示会が始まりました。文部科学省の発表では6月14日から14日間となっていますが、地域によっては前倒しで開始しています。
(参考)平成31年度における教科書展示会の開始時期及び期間について:文部科学省
今回は社会6年生の教科書の「韓国併合」に関する記述について見てきました。
韓国併合の記述について
小学校「社会科」の教科書を発刊しているのは東京書籍、教育出版、日本文教出版の3社です。
2019年4月末の「虎ノ門ニュース」において、東京書籍「小学校社会」の教科書では「朝鮮人が主語になっている」という内容がありました。この話題は時期的に現行版の教科書についてです。
視聴者「小6の娘が『東京書籍の社会の教科書は“朝鮮人は〇〇された”と書いてるが、日本人が書く教科書なら“日本が〇〇した”と書くのが正しい』と指摘した」
— DAPPI (@take_off_dress) 2019年4月25日
有本香「日本が主語になってない」
竹田恒泰「中国・朝鮮側の視点で書かれてる箇所が随所にある。日本軸でやるべき」
日本の教科書はおかしい pic.twitter.com/3LB3Ywg7Ad
この指摘の箇所が明確にどこかはわかりません。おそらく「韓国併合」の部分だと予想しました。
そこで、3社の新教科書でこの部分についてどうなっているのか。本文を読み比べてみました。
東京書籍
東京書籍6年ではこのように書かれています。
日露戦争に勝利した日本は、1910年に人々の抵抗を軍隊でおさえ、朝鮮(韓国)を併合しました(韓国併合)。
植民地とされた朝鮮の学校では、日本語の教育が始められた一方、朝鮮の歴史は教えられず、人々のほこりが深く傷つけられました。また土地の制度が変えられて、土地を失った人々が、日本人地主の小作人になったり、仕事を求めて日本などへ移住したりしました。こうした状況に対し、朝鮮の人々はねばり強く独立運動を続けました。
(引用) 「新しい社会(歴史編)」6年p.122-東京書籍
確かに「朝鮮の学校」「朝鮮の歴史」「朝鮮の人々」と「朝鮮」が主語になっており、動詞も受動態で「教えられず」「傷つけられました」「変えられて」となっています。
教育出版
教育出版6年生ではこのように書かれています。
そして、1910(明治43)年、朝鮮を併合し、植民地にしました。
朝鮮では、朝鮮の人々を日本の国民とする政策が進められました。学校では教育勅語にもとづく教育が行われました。その一方で、朝鮮では国民の権利は制限されました。朝鮮の独立を目ざす人々は、日本の支配に反対する運動をねばり強く続けていきました。
(引用)「小学社会」6年p.191- 教育出版
教育出版も同様に「朝鮮」を主語にしています。「朝鮮」「朝鮮の独立をめざす人々」といった形です。
動詞も受動態となり、「進められました」「行われました」「制限されました」となっています。
また「教育勅語」という言葉が出てくるのは教育出版だけです。文章量も3社の中で一番少なくなっています。
日本文教出版
日本文教出版社6年ではこのように書かれています。
日露戦争後、日本は韓国に対する支配を強め、1910(明治43)年に韓国を併合して朝鮮とし、植民地にしました。朝鮮の人々のなかには、日本がおこなった土地調査により、土地を失う人もたくさんいました。そのために、仕事を求めて日本や満州に移り住む人がいました。また、朝鮮の学校では、日本語や日本の歴史の授業がおこなわれるなど、朝鮮独自の教育をおこなうことがむずかしくなりました。
1919(大正8)年3月、朝鮮の独立をめざす人々のあいだで、大きな抵抗運動がおこりました。日本は、この運動をおさえましたが、その後も独立運動は続けられました。
(引用)「小学社会」6年p.186-日本文教出版社
日本文教出版社も「朝鮮」を主語にしています。「朝鮮の人々」「朝鮮の学校」「朝鮮の独立をめざす人々」が主語になっています。動詞の受動態は「おこなわれる」が一回あるだけで、やや少ないのが特徴でしょうか。
記述量が一番多いのも特徴でしょうか。
まとめと所感
- 文章量の違いはあるが、「韓国併合」に関しては全社「朝鮮」を主語にして記述している。
- 「朝鮮」を主語。当然、動詞は「受動態」となり、児童たちが「朝鮮」の立場で考えやすいと考えられる。
- もしこの件で批判するのなら特定の教科書会社の批判は誤り。
- もし批判をするのなら対象は、教科書検定を行った文部科学省。
個人的には、主語は「日本」にすべきだと思います。
朝鮮を主語とする理由を教科書会社の歴史観ではないと仮定すると、授業の展開の際に「朝鮮」が主語の方がやりやすいという理由があるのだと想像されます。
これまでの授業はいわゆる一斉指導型の授業が主流でした。そういう際に戦争の負の側面を考える時に有効だったのかもしれません。
しかし、現在の授業形態は違います。
教科書紙面にもそれは反映されており、随所に「この時の日本の立場を調べてみよう」「考えてみよう」という思考の場面が設定されています。
そういう指導形態の変化を踏まえた時、主語を「朝鮮」にし受動態にしてしまうと思考を誘導することになってしまいます。
思考の場面で児童の思考を誘導することを現場の先生方は望んでいないはずです。
折角の思考の場面だからこそ「朝鮮」の立場を教科書から読み取るではなく、児童たちに考えさせる方が有効でしょう。
また今回、小学校社会の教科書を読んで感じたのは、日本の「一部の人々」が暴走したから「国民」は嫌々協力させられたというようなニュアンスがあることです。
確かに戦時下では嫌々協力させられたという場面はいくつもあったんだと思います。しかし、嫌々協力させられたというニュアンスによって、児童が「国」と「国民」が全く別の関与できない存在だと受け取ってしまう恐れがあります。
仮に国民の意志が全く国家運営に反映されないように受け取ってしまえば、政治への無関心に繋がってしまいます。
忘れてはならないのは、1890年から選挙制度があったことです。
わたしとしては戦争の痛ましさ、悲惨さという「歴史」に加えて、国民一人一人が当事者として「国家運営」に携わり、政治へ関心を持つことの大切さを学んでほしいと思います。
そして、その意思表明が「選挙」です。6年生の教科書を使う児童たちは、早ければ6年後の選挙で投票することになります。
もちろん6年生の社会の教科書では、歴史とは違う場面で「選挙」について学びます。ただ「選挙」の大切さを歴史を学ぶ際にも忘れて欲しくない、と思いました。