「アクロイドを殺したのはだれか」(著ピエール・バイヤール)についての書評です。
アクロイドとは、あの有名なアガサ・クリスティのミステリー小説「アクロイド殺し」の被害者アクロイドのことです。
本書「アクロイドを殺したのはだれか」は、文芸評論を行いながら「アクロイド殺し」の真犯人は別にいるのではないかと謎に迫る内容となっています。
基本的にネタバレ全開のお話なので、ネタバレが嫌な方は読まないでくださいね。
「アクロイド殺し」とは
「アクロイド殺し」「アクロイド殺害事件」とも訳されるアガサ・クリスティの本書はミステリー好きにはあまりに有名。三谷幸喜さんがドラマをしたことでご存知の方も多いはず。
けれど興味のない人は、知らないと思うので、まずは小説の内容をご紹介。
探偵ポアロが晩年、引っ越してきた街で殺人事件が起きます。ポアロと隣家の医師シェパードは事件の捜査に乗り出します。ポアロが全ての謎を明かした時、犯人は探偵の助手役であるシェパードであったことが明かされます。
「アクロイド殺し」のトリックの特筆すべき点は、シェパード医師の手記として描かれていることです。
「わたし=シェパード」の見たこと、聞いたこと、感じたことが小説として描かれている。つまり、読者はシェパードの視点から物語の世界に入るのです。
これよって以下の3点を理由に読者は、度肝を抜かれるわけです。
1点目は、読者はまず「わたし」は犯人ではないという先入観を持ってしまいます。
2点目は、「わたし」が手記の中で意図的に描いていない場面に気付くことがとても難しいという点です。
3点目は、探偵自身や相棒が犯人だと思わないという心理が働く点です。
ヴァン・ダインの二十則にもあるようにこれら3点は読者の意表をつくだけでなく、読者とミステリー小説の暗黙の了解を打ち破るようなトリックですよね。
しかし、それでも満足度の高い本作は、奇跡的とも言えるでしょう。今なお愛され、読まれ続けている作品です。
そして、「アクロイド殺し」の読者の意表をつくトリックは、叙述トリックとしてその後の多くの作品に多大な影響を与えました。(もし未読の方は、オチを知っていても読む価値はありますよ)
ポアロの見落とし
さて、ようやく本書「アクロイドを殺したのはだれか」についてです。わたしはいわゆる文芸評論はあまり読んだことがなかったので、とても面白く読むことができました。
まず「アクロイド殺し」の小説において、提示された事実の確認から始まります。そこでポアロの推理の強引さや見落とし(?)について触れられます。
例えば…殺人のきっかけとなった故ファラーズ婦人が夫アクロイド氏へ宛てた手紙についてです。ファラーズ婦人は脅迫されていました。そして、自殺する前に手紙を出していたのです。
この手紙の中に脅迫者、つまりシェパード医師の名前があった為に、シェパードはアクロイド氏を殺害するという凶行に及びます。
しかし、本当にそれでシェパードの秘密は守られるのでしょうか?
どうしてファラーズ婦人の手紙が一通だけだと考えたのでしょう。もし同じ内容の手紙が他の人物にも送られていたら、警察署へ送られていたら。少しでもその考えに至れば、アクロイド氏を殺したところでシェパードの秘密は暴露されてしまいます。
むしろ「自殺するような状態で書かれた手紙なので信用に値しない」とシラを切り通した方が有効だったのではないか、と本書では指摘しています。
このように幾つかの点でシェパードは不自然な行動をしています。また名探偵ポアロもこのような思索は辿らず、些細なことにばかり執着していると指摘されます。
まさか名探偵ポアロに推理ミスがあったとは…。本書で指摘される瑕疵は些細なことですが、説明がつかないこともあるのが事実です。
ここまでも十分に面白いのですが、話は「オイディプス王」とフロイトの精神分析について話が及びます。
(ソポクレスの戯曲。ギリシャ悲劇の最高傑作として、最も挙げられることが多い作品。(参考)オイディプス王 - Wikipedia)
どうして「アクロイド殺し」の話が精神分析に及ぶのか。それには理由があります。
妄想と理論と批評
精神分析や妄想、理論といった話に前述のフロイトやアガサ・クリスティのポアロ最後の事件「カーテン」も引き合いに出されて語られます。
(アガサ・クリスティが自分の死後に発表するように契約されて執筆された作品。結末は衝撃的)
この精神分析や「カーテン」に対する言及は、一見、関係のないように思えます。
しかし、ここで妄想や理論について触れ、また他作品でのポアロ、そして、アガサ・クリスティ作品について言及しなければなりません。
これには大きく二つの理由があると思います。
1つは、解釈の範囲を限定することです。
「アクロイド殺し」はシェパードの手記であり、またシェパードは意図的に記述していない文章があるのは前述の通りです。
ここに際限なく解釈を持ち込んでしまうと「文章に描かれていない場面で宇宙人がやってきた殺害した」「実は物理法則が現実とは違う」という極端な主張だって可能になってしまういます。
2つ目は、テクストの内容は読み手の主観によるものと言及することです。
1つ目で述べたように解釈には一定の制限が必要です。但し、たった一つの正しい読み方というものがないことも同時に触れておかなければなりません。
作品解釈において妄想は存在せず、あくまでAという読み方、Bという読み方があり、それぞれを受け入れる・受け入れられないは主観であるということです。
わたしは文芸評論を読み慣れていないので、作中の別犯人を提示するという作業のためにこれほど丁寧に積み重ねていくのだと感心しました。
真犯人は誰か
本書では最後に著者ピエール・バイヤールがアクロイド殺しを読み解いていきます。
その結果、キャロライン・シェパード(シェパード医師の姉)が真犯人であると辿りつくのですが、その推理の過程は、ぜひ本書を読んで下さい。
さて、わたしが印象に残ったのはそのキャロラインの重要性をアガサ・クリスティ本人も言及していた点です。
その文脈から語られるもう一つの解釈。
シェパード医師を殺したのはだれか。
これを言及するためには「カーテン」に触れなければならないことは論理展開上明白で、とっても腑に落ちました。
キャロラインとミス・マープルの類似点に言及し、ポアロとキャロライン(≒ミス・マープル)が争うようにシェパード医師を死に追いやる対決として読み取る。
この解釈の流れ、ぜひ本書で体感してください。
解釈という楽しみ
ピエール・バイヤールの書籍を読むのはこれが2冊目です。
一冊目は「読んでいない本を堂々と語る方法」でした。
こちらでは「読む」という行為自体を抽象化し、何をもって読んだというのか。また読んだけれど忘れてしまった本を読んだと言って良いのか、という ように「読む」という行為に踏み込んで書かれています。
「読む」という行為を解釈し、精査しながら「読む」ことについて描かれた小説を引用して「読む」ことを論じるという書籍でした。
今回は「アクロイド殺し」というある1冊に焦点を当て、「読む」という行為、「推理」という行為、それ自体を紐解いていく書籍だったと思います。
「アクロイドを殺したのは誰か」という「真犯人」という興味をエンジンに読み進ませながら、読書という行為について深く考える過程を楽しむことができました。
そういうわけで今回の記事では、ネタバレを全てしました。それでも読むという「過程」の価値は損なわれないと思っていますよ。では、また。