りょうさかさんと

教育業界にいる陵坂さんが教育・子育て・DWEなどについて書くブログ

りょうさかさんと

人命の救出とテロとの交渉ではどちらを優先すべきか


f:id:ryosaka:20181029055449j:plain

村上龍さんの「半島を出よ」が大好きです。

発売されて読みふけった時のことは今でもよく覚えています。早く読み進めたいが、もう物語が終わってしまうのが嫌で、読み進めたくないという矛盾した気持ちを抱えながらページを捲る手が止まりませんでした。

この本は、9人の北朝鮮の武装コマンドが福岡ドームを占拠するシーンから始まります。この本では「テロリストに対して国家はどうすべきなのか」というシーンが随所に登場します。

そして、現実社会では安田純平氏がテロリストから解放されました。拘束されて実に3年の月日が経っていました。

2つの観点

安田純平氏への報道や評価は「擁護」「英雄」というキーワードに代表される好意的なものから「自己責任論」に代表される否定的なものまで様々です。

これを考えるためには2つの大前提を整理して考える必要があります。

それは…

・国家は国民の命を守る。

・国家は、多数の国民の命のためには少数の犠牲はやむをえず払うことがある。

の2点です。

国家は国民の命を守る

国家とは、国が国民の生命・財産・最低限度の生活を守る代わりに国の定めた法律・ルールに従い、税金を納める義務を果たしてね、という約束事を共有した集合体だと認識します(わたしの個人的な国家観です)

そう考えると日本としては出来る限り安田純平氏を救うべきですし、実際に日本がそういう動きをしていたと思います。

また国家として「あの国・地域は危険だから行かないでね」という渡航自粛や注意をだします。これは国家として国外の国民も守らないといけないからです。

そして、守ることが難しいとされるケースにおいては「そもそも行かないで」と警告をする責任があります。だって国民の命を守るという責任を全う出来ないのに国民に税金納めろなんて言えないし、国民としても納得できないでしょ。

今回、安田純平氏は国家として「あの国・地域は危険だから行かないでね」というのを無視したわけです。「行かないでね、と言われたのに行った」わけですから、その行為を共同体の内部から批判されるのは否定できません。(自己責任論とは違うよ)

留意点があるとすれば、「行った」結果、共同体にとってプラスとなるモノ(物・情報)を持ち帰った場合です。場合によっては「称賛」されるということもあるでしょう。

国家は、多数の国民の命のためには少数の犠牲はやむをえず払うことがある。

一方で矛盾するようですが、多数のために少数を犠牲にすることも必要な場面があります。

冒頭に書いた「半島を出よ」(村上龍)では、9人の北朝鮮の武装コマンドが福岡ドームを占拠します。作中では二つの選択肢がありました。

1つ目は、福岡ドームの3万人の観客ごとミサイルを撃ってテロリストを排除すること。

2つ目は、テロリストの要求をのむことです。

「半島を出よ」ではテロリストへの返事を日本が苦慮している間に、北朝鮮からさらに500名の特殊部隊が襲来し福岡市中心部を制圧します。そのため、1つめの選択肢が福岡ドーム3万人の命を犠牲にすべきか、という規模から福岡市全体へと広がってしまいました。

少数の命を犠牲にできなかった為に、より多くの人命が危険にさらされることになったわけです。

映画「シン・ゴジラ」でも、同様の場面がありました。避難が遅れた1人の命のためにゴジラへのミサイル発射を中止し、その後、多くの人命が失われることになりました。

どちらを優先すべきか

さて、この2点のどちらを優先すべきでしょうか?

安田純平氏のために支払われたのは3億円だと報道されています。

どれだけの殺傷兵器がテロリストに渡るのでしょうか。

購入された殺傷兵器で何人の命が亡くなるのでしょうか。

また邦人を拉致監禁すると3億円が支払われるという実績が、今後、どのような影響を与えるのでしょうか。

「人命は地球より重い」そう言って1977年福田赳夫首相は、ダッカ日航機ハイジャック事件においてテロリストの要求をのみ、国際社会から批判されました。

亡くなるかもしれないより多くの人命のために少数の人命を犠牲にすべきなのか。目の前の命を助けるべきなのか。

きっとワンピースのルフィなら「どっちも助ける!!」(ドン!!)みたいな台詞で我々を勇気づけてくれるでしょう。

でも、でも、現実ってそんな甘くないよね、とも思ったり。

頭の中では戦争やテロとの闘いでは、多数派の命を優先すべきだと思います。

だから安田氏のケースで言えばテロリストと交渉すべきでなかったと考えます。一方で交渉して安田氏が無事帰ってきたことは良かったと思います。こう思ってしまうのは、まだまだこの優先順位に悩んでしまっているから。

フィクションから学ぶことは数多くあります。

あなたもこの問題、ぜひ考えてみて下さい。では、また。