りょうさかさんと

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【書評】「読書という荒野」から考える「死」


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どうも陵坂です。今回も「読書という荒野」(見城徹)についてです。前回の記事では内容的に触れづらかった部分を取り出して述べたいと思います。

 

タイトル通り「死ぬこと」についてです。

どーん…。

今日という日は死から一番遠い

この見出しの言葉は見城徹さんの著書「たった一人の熱狂」で述べられたもの。

見城さんは本書の中でも繰り返し「死」について述べています。

強迫観念ともいえる「死」への言及の理由は本書をお読みいただくとして、わたしがぞっとしたのがこの文章です。

死ぬことは、自分が生まれる前の状態に戻ることを意味する。時間という概念自体、人間が勝手に言葉で決めたものだからだ。(中略)

そのなかで僕は、映画の登場場面みたいに、一瞬何かの役で出演し、再びいなくなるだけだ。奈良時代にも、大正時代にも、自分はいなかった。そのときに何の苦しみを感じなかったと考えると、自分がいない時代に戻っても、実は苦しむことなど何もないのかもしれない。

 と頭ではわかっていても、やはり死ぬのは怖い。(No.2029)

そう、自分が死んでも視点を鳥の目のように高くして見下ろしてしまえば、そこにはたった一人の命なんてあってもなくても変わらないという厳粛な事実が横たわっています。

でもやっぱり「死」は怖いし、「死んだ後」のことだって気になってしまう。

理屈で言えば、自分が死んだ後のことを考えるのは意味がありませんよね。

自分が死んだあとに何が起きても、また死んだ自分がどう思われようと、もう死んでいないのだから気にすることすら出来ないのだから。

でも、それでもそういうことに思いを馳せて、死を怖がり、生に執着するのが人間です。 

死ぬ瞬間について

死について考える時、わたしが必ず思い出すニュースがあります。

それは、耳にイヤホン・手は歩きスマホという状態で電車か自動車に曳かれて即死した方のニュースです。亡くなったのは、確かまだ若い方だったはず。

わたしはこの人が亡くなった瞬間はどんな感じだったんだろうと思うのです。

音もなく映像もなく死んでしまったかもしれない。もしかすると当人は死ぬことすら自覚していないままこの世を去ってしまったのではないか。

そんな想像をしてしまうのです。

厳密には「即死」と言ってもテレビの電源をオフにするようにブツッと真っ暗になるのではなく、徐々に死ぬのだと思います。

「徐々に」という時間が1秒なのか、それともコンマ何秒の世界なのかもしれません。

その時に「死ぬ」ということを意識することはあるのでしょうか? それとも肉体、細胞レベルで何か感じたり、思ったりすることはあるのでしょうか。

答えはでません。

死は一方通行です。

誰かが死から引き返してきて、こうだったよ、と語ってはくれません。

またごく稀に息を吹き返した例が報道されますが、それが本当に「死んだ」ときと同じような体験なのかどうかも検証することはできません。 

死を考えることは生を考えること

生きている限り、必ず死にます。みな同じ方向に向かって、それを見ないようにしながら歩いているのです。

見城徹の本に出てくる「熱狂する」という選択肢は、この生き方・死に方に深くつながっていることが本書では述べられています。 

熱狂するような生き方は一つの解答ですが、それが万人にとっての解答ではないでしょう。

わたしは熱狂に憧れながら、熱狂にはほど遠い人間です。日々の小さな幸せ、充足感を確認しながら、下らないことに腹を立てて、どうでも良いことで時間を使う。それが幸せであり、今の生き方のようです。

少なくとも他人の模範となるような生き方ではないかもしれません。

それでも生きていく。

お盆を控えたこの猛暑の夏。自分の生き方、死に方に思いを馳せるのも良い機会なのではないでしょうか。じゃあ、また。 

 

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