最近、ゼロリスクの罠に陥っていないか、自分自身の考え方も含めて、考えることが多いです。
ゼロリスクとは
「ゼロリスク」って意味は、そのまま「リスクがゼロ(無い)」ってことです。
リスクゼロ、なんて素晴らしいでしょうか。スパロボやFEなどのシミュレーションゲームの命中率0%なんて、まさにコレ。危険性なし。
でも現実はテレビゲームと違って、視界に常に命中確率が表示されているわけではありません。また限りなくゼロであっても、ゼロではないことの方が多いわけです。
ゼロリスク信奉
何においてもこのリスクゼロを求めるゼロリスク信奉とも言える人たちがいます。
ちきりんさんがこちらのブログで書かれているように、ワクチン接種反対や原発被災地の食品への過剰反応など顕著です。
(参考&オススメ)迷惑な人イレブン - Chikirinの日記
どうしてこういう反応になるのでしょうか。
「科学的リテラシーがない」
「学校教育の敗北」
みたいな意見を見聞きしたことがあります。
わたしの個人的な考えをいえば、「イメージ出来ないことは怖い、だから反対しているんじゃないか」というものです。
怖いから反対、懸念があるから反対
ワクチン接種の副反応も、放射能もわからないから怖いというのは程度の差はあれ、多くの人が共感する部分だと思います。
でも、少しでもネットで調べれば、ゼロではないがかなり確率が低いことがわかります。この「ゼロではない」と言う部分をどう捉えるかがゼロリスク信奉者の極端な部分です。
良く考えれば、外に出て事故にあう確率の方が高かったりします。
国土交通省の社会資本整備審議会が発表した資料(2002年)によれば、「一生のうち交通事故にあう人は2人に1人」とされています。
(引用)人生で交通事故にあう確率は何%?|交通事故 弁護士相談ドットコム|弁護士事務所検索サイト
少し前のデータですが、1年間に交通事故にあう確率は0.9%。 一生だと53%になるそうです。
交通事故は目に見えてわかるけれど、ワクチンや放射能は目に見えないから、イメージしづらいから反対する。
「いやいや、わたしは俺は、そんなんじゃねーし」
そうあなたも思ったはず。本当にそうでしょうか?
現状維持もリスクゼロではない
「小中学校へのスマホ・ケータイの持ち込みについてどう思いますか?」
「大学入試に民間英語試験の活用をどう思いますか?」
こういう新しい取り組みに対して、賛否両論が分かれることは当然ですし、色々な意見と議論が生まれることは素晴らしいことです。
でも、反対の理由や根拠がどの程度、数的な確率があるのか。ただ懸念されるだけなのか。わたしは懐疑的です。
前に「小中学校へのスマホ・ケータイの持ち込み」について書きましたので、今回は「大学入試改革に民間英語試験の活用ついて」取り上げたいと思います。
(「小中学校へのスマホ・ケータイの持ち込み」についてこちらをどうぞ)
「大学入試改革に民間英語試験の活用ついて」の批判についても納得できる指摘もあれば、ただのゼロリスク信奉じゃないかと思う部分もあります。
例えば納得できる指摘として「異なる検定試験に対してCEFRで評価を統一するのが適切なのか」というものです。
一方で、ゼロリスク信奉っぽい指摘は「ちゃんと受験者数増加に対応できるのか」みたいな奴です。
この指摘は業者が「出来ます」と返答したとしても「本当に生徒の1名もミスなく、絶対に大丈夫なのか?」と詰め寄られたら、業者は「絶対とは言えません」としか返答できないでしょう。
周知のことですが、入試・試験のミスはゼロではありません。高校入試、センター試験、大学入試など実績のあるものですら全国のどこかで採点ミスや入学者発表ミスをしています。
そして、反対派の意見は結局「性急に話を進めすぎているように感じる。まだまだ議論が必要だ」みたいな現状維持へ戻る提案です。
新しいことはゼロリスクじゃないが、現状もゼロリスクではない
入試改革、教育改革が叫ばれるのは、現状に不備(リスク)があるからです。
現状のリスクはゼロじゃないのに、新しいことのリスクがゼロじゃないからといって反対するっておかしくないですか?
放置できるリスクかどうか、ちゃんと吟味していかないとただのゼロリスク信奉と変わらないと思うわけです。
現状維持もリスクゼロじゃありません。リスクゼロの罠にわたしもあなたも嵌らないようにしましょうね。それでは、また。