どうも、りょうさかさんです。
今回はわたしの大好きな作家・村上龍さんのエッセイ「おしゃれと無縁に生きる」についてです。
実はハードカバー版で購入して読んでいたのを忘れて、文庫版も購入してしまったというちょっと頭のゆるいエピソードがあります…。
エッセイから滲みでる人間性は変わらない
村上龍さんに限らず、エッセイは文章そのものから、また行間から滲み出る作者の人間性や考え方、趣味嗜好を楽しむものだとわたしは思います。
村上龍さんのエッセイで代表的なものでいえば「すべての男は消耗品である」シリーズがあります。
このシリーズだけで文庫本にNoがついているものだけで10巻。
サッカー関連の「フィジカル・インテンシティ」シリーズで5巻。
「恋愛の格差」などの雑誌連載エッセイ、「村上龍文学的エッセイ集」などの各誌単発エッセイの寄せ集めもあります。
それだけのエッセイのほとんどを読んでいると表現は違うけれど書かれた内容は同じように感じるものがあるのも事実。
というか前述のようにエッセイは人間性・考え方・趣味嗜好を楽しむもの。
本質は変わりようがないですから内容が似てくるのは仕方ないのかもしれません。
これは他の作家さんでも同様ですよね。
今回のエッセイも村上龍さんのファンにとってはある意味いつも通りの内容。
それでも年や時代によって変遷を楽しむことが出来ますし、初めて読まれる方にとっては新たな発見があると思います。
さて、「おしゃれと無縁に生きる」の中から気になったエッセイを1つご紹介。
幸せの感じ方
「非寛容の時代」というタイトルのエッセイでは幸せについて書かれています。
「時間軸と空間軸、それぞれに生じる満足・充足という考え方があるらしい。」(本書p.84)という言葉から始まる文章が心に残っています。
そこから続く内容は以下のようなものです。
「人は、時間軸で見れば「過去より今、今より将来が豊かになるかどうか」という考え方があり、空間軸で見れば「幸福や充足を他人との比較によって測る」という考え方がある」
現在は高度経済成長期に比べれば、時間軸での幸福を期待しにくい世の中です。
また良い大学に入って一流企業に入れば幸せな生活が約束されているとも言えないですよね。
そうなると人は、空間軸で物事を見てしまう。
「おれの状況はイマイチだが、あいつに比べたらマシな方だ」
「どうして苦労もしてないあいつが、おれより幸せそうなんだ!」
どちらも自分の主観から見た景色に過ぎないのに心を振り回されてしまう。
このエッセイでは、こういう心理から炎上の類が起きるのではないかと締めくくっています。
わたしもこういうことがないとは言い切れません。
他所の部署の社員を見て「こっちは忙しいのにアイツは暇そうだなー」と思ってしまいそうになります。
こういう経験のある方、いるんじゃないかな。
そんな時に思い出すのが麻雀の言葉です。(たぶん阿佐田哲也の「麻雀放浪記」で読んだはず)
- 自分より下手だと思ったら、実力は互角
- 自分と同じくらいの腕前だと感じたら、相手の方が少し強い
- 自分より少し強いと感じたら、相手の方がはるかに強い
麻雀では一緒に卓を囲んでいる相手の牌は見えません。
ですから相手の力量を測る時にこんな考え方をすると良いそうです。
この相手の手の内が見えないって、実はどんな物事にもほとんど共通ですよね。
他人のことは分かるようで自分が思っている以上にわかっていないってことです。
そんな程度の判断で他人と比べて幸せを感じたり、羨んだところで何も現実はかわりません。
他人と比較するよりも自分の成長、ここでいう時間軸に目を向けて暮らしていきたいもんですね。
それでは、また。