陵坂と考察と

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「作品」の評価に「作者の人間性」を含めても良い理由

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どうも陵坂です。ミュージシャン、作家、映画監督、漫画家、俳優、お笑い芸人、アイドルの方たちのスキャンダルって好きな人が多いですよね。

少し思い返すだけでも不倫、労働環境、生活保護の不正受給などのスキャンダルが週刊誌を賑わしていました。

小室哲哉さんのことを契機にようやくスキャンダル報道自体に関して批判や意見が大きくなってくるようになりましたね。

スキャンダラスな醜聞(文春)の記事に「あんな奴の音楽、二度聞かない」とか「あんな奴が出てるテレビ番組は金輪際見ない」という意見もあれば反対に「作品とそういう作者の情報は別物」「突き詰めれば聖人君子じゃないと良い作品は作ることが出来ないという理屈になる」みたいな意見もあります。 

たぶん「どちらもなんとなく言い分がわかるんだけど…結局、うーん、どっちなの」という感じの方が多いと思います。難しいですよね。そこで陵坂も自分なりに考えてみたことをまとめみたいと思います。

そもそも「評価」とは

別にいつものようにまず言葉の定義から確認するつもりはありませんが「評価」とはなんでしょうか。この「評価」という言葉の捉える意味、ニュアンスって人によって変わりますよね。

「単純な好き・嫌い」の感想やAmazonのレビューのようにライトなものから、「評論」のようにガッチリとした評価を試みることのようなヘビーな場合もあるはずです。そのライトとヘビーの両方を同列で語るのは適切ではないと陵坂は考えます。なぜか。

例えばアマゾンのレビューで20年前の1998年の小説を読んで「デートシーンが古臭いドラマのようで興ざめでした」って書いたらどうでしょうか。(実際にこういうレビューを見たことがあります)

レビューとしては的外れだと思う方が多いでしょうが、批判はされないと思います。

一方で同様の趣旨のことを評論や真面目な書評ブログ上の記事で書いたらたぶんバカ扱いされると思うんですよね。書かれた時代すら考証してねーのかよってね。

「ヘビーな評価」であればあるほどその「評価」に対して、ある種の厳密さを読者が求めます。

つまり、「ライトな評価」か「ヘビーな評価」によってその「評価の在り方」は分かれるってこと。 

ライトな評価

では「ライトな評価」の特徴とはなんでしょうか。これって単純に言えば「感想」ですよね。「好き」・「嫌い」みたいなレベルでも良いし、本人の感覚を優先する人もいれば周囲の評価を基準に判断する人もいます。そして、この「ライトな評価」を支える根幹は「情報」です。

具体例を書いてみましょう。これ実際に体験した奴ね。

車内で消滅都市2のサウンドトラックをかけていました。友人が「この曲めっちゃ良いじゃん」って言ったので「スマホゲームのサントラだよ」と伝えました。すると途端に「なんだ、ゲーム音楽かよ」みたいなリアクションを取られたことがあります。

なんの先入観もなければ良い音楽だと感じたのに「ゲーム音楽」という情報を手にした途端に評価が変わってしまったんですよね。

逆のパターン。

U2のアルバムを聞いて「この音楽の何が良いの?」って言われたことがあります。その友人に「このアルバム、グラミー賞3部門受賞だよ」と教えました。その結果「マジ? すげえなあ」と180度評価が変わってしまいました。

どうでしょうか。貴方も似たような経験ってありませんか? 

この「情報」から完全に自由になるってなかなか難しい。

先ほどの例のように「知ること」によって評価を上下させることもあれば、「知らない」ことによって評価を上下させてしまう。

これが「ライトな評価」の特徴です。ライトゆえ理論的ではなく感情的・感覚的に、また情報の有無で評価を決めてしまう。

だから芥川賞受賞、日本アカデミー賞受賞、グラミー賞受賞、日本レコード大賞受賞、M-1王者みたいな肩書を中心に作品・人物を見て評価を下しても良い。

「犯罪者だから嫌だ」という評価もありだし、逆に「炎上した人だけど作品は良いじゃん」という評価もありです。だってライトな評価だもん。

そういうわけで「ライトな評価」はどんな情報を元に評価しても良い。だから作者の人間性も自然と含まれる ということになります。

ヘビーな評価

じゃあ「ヘビーな評価」の場合はどうなのか。ヘビーな評価はいわゆる評論などに代表される「理論的な評価」を試みるもののことを指します。

つまり、感情的・感覚的かつ情報に振り回されるライトな評価とは真逆に位置するわけです。では、ヘビーな評価が情報に左右されないのでしょうか。

そんなことないですよね。ただライトな評価とは違う種類の「情報」を元に評価をし、論評を試みる活動です。もちろん評価の仕方の切り口にも寄ると思いますが…。

例えば、もし陵坂が大好きな村上龍さんについて村上龍さん自体、もしくはある特定の作品について評論を試みるとしましょう。

その時のアプローチとして村上龍さんの文学界の位置づけ、作品を書いた時の社会状況、その作家のモチーフがどう変化していったか、作品執筆と同時期のエッセイで何を書いているかなどを考えるんじゃないかな。

このように「情報」を集めて論考していくと思うんですが、これって時に「作者の人間性」と呼ぶべき部分にまで思索を巡らすのではないでしょうか。 

もう少しわかりやすい例なら三島由紀夫の「豊穣の海」の論評を考えると良いかもしれませんね。「豊穣の海」はあの割腹自殺直前に完結した作品です。

そういう作品を論考する際に、三島が何を考えていたか、また作家・三島としてではなく個人・三島が何をしていたのかを作品と結びつけるのは変ではないと思うんです。

これも「人間性」に踏み込んで評価する場面に遠からず遭遇するはずです。(もちろんあえて作品だけで論考することを否定するわけではありません)

つまり、「ヘビーな評価」にも作者の人間性が含まれる場合があるわけです。

人間性を評価に含むべきではないという人の意見

陵坂にはわかりませんが、これってたぶん「ライトな評価」に対しての意見だと思うんですよね。

陵坂は音楽では「ゲスの極み乙女」「indigo la End」が好きです。川谷絵音さんの不倫騒動以降、「こんな奴の音楽聞きたくない」みたいな意見を聞いたことがあります。それまで評価されていた曲が、一人の素行によって曲の評価が変わる。これってこの記事で言う「ライトな評価」ですよね。

ファンとしては不快ですが、ライトな評価ってそんなものです。どんな評価、つまり感想を持つ自由が日本にはあります。良いじゃん、言わせておけば。

もちろん時にそんな評価が大合唱されることもありますがそんな評価を気にする必要がありますか? どーせ、よく知らない人の戯言よ。とドーンと構えてファンとして支えたいもんです。

(ただそんな「ライトな評価」をストレス発散的にぶつけられる本人たちについてどうなのよ、という問題は別のお話しとして分ける必要があります。) 

まとめ

・ライトな評価もヘビーな評価も「情報」を元に構築される。

・ただ両者でその「情報」がもつ意味などは変わる。

・その「情報」の中に「人間性」を含んでも良い。

ほな、さいなら。

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