たまたま東京新聞を購入して読んだエッセイが面白かったので、今日はそれについて。
又吉さんのコラム
東京新聞紙上で又吉直樹さんと武田砂鉄さんのリレーエッセイが連載されています。「往復書簡」というタイトル通り手紙をやり取りするような形式で書かれています。
2017年12月19日の紙面では又吉直樹さんが「与えられた思考は変化」というタイトルでエッセイを書かれています。往復書簡なので「流れ」「文脈」があるとは思うのですが、この断片だけを読んでの感想というのを前提にしてください。
コーチからの言葉
又吉さんが小学生の時、サッカークラブのコーチから「自分のことを上手いと思うか?」と問われました。皆が口をそろえて「下手です」と答える中、ギリギリ試合に出られるレベルだった又吉さんが唯一「下手だとは思いません」と答えました。
「下手だ」と言葉にすることで揺るがないものになってしまうのでないかと考えた末の発言でした。
しかし、コーチの言葉は「今、自分のことを下手だと言った奴は伸びる」。それ以降、コーチを否定することでしか生き残れないと思った又吉さんは練習に打ち込み結果的にコーチが求めたかった努力をしたのが又吉さんでした。
エッセイのラストではこのように綴ります。
誰かから与えられる思考や言葉は形としてそこにあったとしても、自分の日常や思考と響きあうことで、より明確になったり、また違う思考を生み出したりすることが面白いと感じます。その人の人生ありきの名言が多いのもそういうことなのかもしれません。
このエッセイについて思うのは2点。「コーチの発言」と「エッセイのラスト」についてです。
コーチの発言
まずコーチはきっと下手だと自覚させることで練習へ発奮させようとしたのでしょう。でも、小学生のチームメンバーは皆その意図に気付いてしまっていた。その時点でコーチの目論見は失敗していたんですよね。
だってこの発奮させる流れとしては、本人たちが自覚していないことに「ハッ!」と(絵文字なら「Σ(゚□゚;)」)と気付かせてこそ効果があるはず。
漫画なんかで天狗になってた主人公がコテンパンにやられて再起するみたいな。そういうのありますよね。
コーチの言葉が誘導尋問的で「下手です」以外の発言を認めない雰囲気を作ってしまった時点で失敗で、本人たちはただ言わされているだけで望む効果は得られないですよね。
個人的には「下手です」と自覚させること自体がよくないと考えます。メタ認知のところでも話をしましたが負の認知は逆効果。又吉さんが「下手だとは思わない」(上手いとは言っていない)が相応しい解答だと思います。
またスポーツ以外でも同様ですが漠然と「下手」だと認識するメリットがあるのでしょうか。サッカーなら選手によってドリブルが下手、シュートが下手、ポジションのが下手など人それぞれ苦手とする部分、その数は違うはずです。
またその逆にキラリと光るものや個性もあるはず。欠点の修復も大事だと思いますが、長所を伸ばすことも大事でそういう個別の部分に焦点を当てることが大事だったのかなと思います。
と、結果論から好き勝手言っているだけですし、自分が後輩を指導する時、また子どもに関わる時に投げ掛ける言葉やその文脈はとても難しいなあと改めて感じました。
エッセイのラスト
2点目の又吉さんのラストの引用部分は、とてもわかりやすく文章にされていてさすがだなと感じました。
私の前段のコーチの発話に対して感じたこと、考えたことはきっと又吉さんがこのエッセイで意図したこととは違うと思うんです。でも、私は普段教育関係の社員であることもあってどうしても指導者の方法論の方に目が向いてしまった。まさに又吉さんの指摘通りですよね。
つまり、この引用したラストの文章を読んでいて私は追体験する形で「ハッ!」とさせられたわけです。
私はこのブログが嫌な思考の触媒になってしまうことは避けたいですし、そうはなりたくありません。
一つのエッセイや小説から色々な思い出を振り返ったり、想像したり、考えさせられたりするようにこのブログでも読まれた方が少しでも得るものがあるように、意図しないものも得られるように精進したいと思います。